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あとがき
昭和、平成を生きて、健やかに喜寿を迎えることが出来ました。
戦争中の女子学生にて「読書が好き」だけの私を短歌へ導いて下さったのは故大埜間霽江先生でした。
終戦の翌年、丹生川国民学校の校医先生の短歌学習会に、勤務したばかりの私も参加させていただき、男女青年団と共に学びました。ガリ版のテストさえままならぬ当時、文芸へ誘はれ、その熱意と温情に接したことは、何ものにも代え難い幸せでした。
退職後、老母と三人の子供が医師としての先生に診ていただく度に、「歌を詠めよ」とのおすすめにも応えられず歌はぬ月日は長かったのですが、「白樺」「高原の雲」「飛騨短歌」その他歌集を戴いて折々に読み続けました。
三人の子が学業を終え自立の後に、NHK短歌講座を受講、実作、友の会と学んで十余年、近年は年に二、三回、全国大会、地方大会に参加して新鮮な歌に触れることも、老後の生き甲斐となりました。
昨年、娘が歌集を作ることを勧めてくれました。印刷、製本をすべて手作りすると言ひます。半信半疑乍ら、喜寿の節目として自分の歌を見つめ直す機会と思ひまして、新春から選歌に向かひました。古い大学ノートを繰りますと、拙い歌に残るよろこび悲しみ、あの日あの時の心模様が甦って参ります。果たせそうにない自分史への願ひをも含めて取り組む自らの意欲に気付くことも嬉しい発見でした。
何一つの知識もなく全く手探りで何度も挫折しそうになり漸く、娘に歌稿を渡します。拙い歌はもとよりのこと、母娘合作の手作りの本がどんな形になりますか「ほんとにこわいさ。」と呟く心の中には感謝と幸せが満ちています。
終わりに恩師故大埜間先生に深く感謝を申し上げ、師の心を心として生かされる限り詠み続けたいと願って居ります。
平成15年3月
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